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国民健康保険に入ろうと試算したら死にそうな金額になったので任意継続を選択。
給料が高すぎたんだよって言われればハイそうです、なのだけれど、ゼロになった人間は払えないものは払いたくない。 でも年金は選択肢はないので国民年金です。 そういえば耳の下のリンパ線が痛い。 早く届け! 保険証。 ついに無職になり、時間がとれるようになった。
と 思ったら意外と何もできないもので、部屋を片付けるはずがなかなか進まない。 ものを捨てる、減らすをやっていくしかないのだけど、それができない。 そんなふうに、実りのない一日を過ごす事が多い。 そんで、実りない一日が今も心残りだから、このパソコンがある机の上や引き出しの中を整理した。 でるわでるわ ゴミ。今まで放っておいた場所が結構あって、しかも最大の問題は、この場所は何をしまう場所、ってのが決まってないってこと。家族がそれぞれ勝手にものをしまっている。いやこんな事を気にしてはいけない。もっと自分のことを考えないと。こんなところはいずれまた同じようにちらかる。それよりも自分のものを処分する算段のほうが先だといいきかせながらさてどうしようか?とまた途方に暮れたりする。 テレビを見始めると録画していた番組をつい見てしまう。結局、たくさん録画しているれども、死ぬまで見る時間がないようなものが結構ある。 そんな中、月曜に見たのは青森空襲を取り扱った番組。 青森大空襲は、避難していた人々が配給停止を役所から言い渡されやむなく戻ってきたところで被災し、死者を増やした、という事実が軸になっている。当時の硬直しすぎた役人の指示や焼夷弾の怖さを知らなかったことに大きな問題があったようだ。さらには、焼夷弾は強化された新型だった。 これは終戦記念日のころに放送された番組で、ちょっと最初のさわりをみていたら娘がやってきてそばに座って動かなくなったので一緒につい最後までみてしまった。1000人以上も死んだらしい。ハンブルクは5万人、ってのは知っていたけど、青森空襲は1000人 当時の人口は10万人だから1%。 昔青森市がまとめた空襲の本を持っていて、引っ越しのときにしか開かないんだけど、そこには個人の手記が載っていた。親や祖父母からも青森市内の国道があんなに広くなったのも空襲があったからだ、っていう話はよく聞いてた。だから全然何も知らなかった訳じゃない。 そして今回番組に登場したのも実体験を持つ70代後半から80代の人たちだ。悲しい記憶を持つ彼らはぼくらよりもずいぶん年上だけど、女性はとくに、まだまだ元気だ。婆様たちは色白で肌がつやつやしている。どうでもいいことだが。 ドレスデンとか、ハンブルク、ニュルンベルクといったドイツの都市も数万人が死ぬような大空襲にあったわけだけど、東京で言うところの都心、銀座や皇居や永田町みたいなところも爆撃を受けて焼かれていて、それぞれ昔の面影がないほどの被害を被った。東京はそこまではやられなかったから、銀座や大手町みたいなビル街は古いビルが今でも一部残っているわけだ。もちろん、大空襲の時以外にも空襲はあったから全部じゃないらしいけど。 焼夷弾が使われた日本とは違って爆薬の入った爆弾がメインで使われたドイツの空襲は、石造り、れんが造りの建造物を破壊するためで、戦後東側だったドレスデンを除くと必死になって戦争前と同じような建物を建てて復興しようとした。それぞれ出張や旅行で見てきたけど、ハンブルクとニュルンベルクはそこそこ美しいれんが造りの町並みを取り戻している。でも、こういう町を訪れると必ず空襲の傷跡を展示するような場所や教会があって、ひしゃげた時計や鐘が飾ってあったりする。さて、わが?青森空襲にかんしてそういうものがあったかというと、県立郷土館にあったかな?ぐらいの感覚。本当はことばで語り継いでいく以前に、そういうものが市内のあちこちにあってもいいくらいのこと=重大なできごとなんだけど。 青森は空襲より前から残っている建物はもう少なくて、駅前のJRバスの建物と、その県立郷土館になっている銀行の建物とか、そんなものかな。海の近くに立ってたコンクリート作りの3階建て位の建物(追記:旧青森市公会堂、大正天皇ご成婚を祝って明治期に建てられ、その後大正末期に増築されたらしい)は小学校のころスポーツ施設(追記:当時は青森スポーツセンター)になっていて、剣道教室を見学に行ったときにはまだあったし、自分が通っていた浪打小学校は昭和ひとけた年代の建物で空襲の傷跡があったけど、いまはもうない。(追記:スポーツセンターは現在跡地に建っている 青森しあわせプラザ、福祉増進センターの入り口の造りにその面影を残している、とのこと。浪打小学校は、職員入口の正門を入ったところにあった円柱のデザインを、現在の建物の正面にモチーフとして採用している模様) そんな空襲のことは、ぼくも直接経験していないし、青森の父母も当時は西津軽郡にいて空襲には遭っていない。でも、ぼくが育った青森という街でそんなことが昔あったんだ、ということが、ぼくの娘にとっても何か感じるところがあったんだろう。あいつは黙って一緒にテレビに見入っていた。ぼくは、テレビに登場する写真の建物や場所についてちょっとだけ解説をしてあげたけれど、それ以外はコメントしなかった。いまはそれで、十分だろう。 実はドイツでもそんなことを見て回っているのは、戦争の傷跡というものに対して個人的に興味があって、強制収容所なんかもわざわざ見に行っているからぼくもちょっと変わっているのかもしれない。 でも、自分が生まれる前にあった様々な出来事(世界中の)を知りたくなるのは人間、誰でもある事じゃないのかな。 別の番組では、戦争で自ら負けを認めなかった旧軍は冷静な議論ができない程機能が麻痺した組織であったことを本人達が反省会を開いていて、その内容をまとめていた。原爆や各地の大空襲など、愚かな旧軍の動きにつけこんで大量の新兵器の性能テストを敢行した連合軍にも問題はあるけれども、結局は「昨今の日本の組織でもいまだ垣間見る事ができるような機能不全」が蔓延していた旧軍参謀本部に問題があったんだっていう事実が関係者の他界によってようやく真っ正面から論じられるようになったようで、なぜ数十万人の人々が無駄に死ななければならなかったのか、戦後64年経ってようやく、これらの方々に成仏していただくべく我々戦争を知らないおやぢ達が冥福をお祈りする事になってしまった。なんということだ。 (追記: 文中のリンク関係、問題あるようでしたらご指摘ください。)
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